「食育」の先駆者・村井弦斎

HOMEMIC FUN「食育」の先駆者・村井弦斎第5回:『食道楽』の誕生

第5回:『食道楽』の誕生

トリュフ、キャビア、フォアグラまで登場

さて、今回から明治の“食育小説”とも呼べる村井弦斎の『食道楽』についてご紹介したいと思います。ほとんどの人は、明治時代に書かれた小説と聞くと、非常に古くさい内容を想像するに違いありません。ところが意外や意外、『食道楽』のなかで村井弦斎が説いていることの大半は、百年後のいまもそのまま通用すると言ってもいいほどです。『食道楽』は現在、岩波文庫(上下巻2冊)で読むことができます。

『食道楽』には和洋中にわたる600種類以上の料理の名前が登場し、使われている食材も、世界三大珍味であるトリュフ、キャビア、フォアグラも出てきますし、高級料理では燕の巣の料理も紹介されています。デザートも、プリン、アイスクリーム、ババロア、スポンジケーキ……等々。さらには、タピオカ、セージ、ナツメッグ、タイムといったカタカナ言葉が料理用語辞典のように満載され、料理の一部は作り方までが説明されているのです。とても1903(明治36)年に発表された小説だとは思えません。

1971年に柴田書店から復刻された『食道楽』春・夏・秋・冬の巻4冊の復刻版(原本は1903年~1904年刊行)。
花をデザインした美しい装幀で、当時としては高価な本だった。

“美食の勧め”ではなく“教訓小説”として執筆

1863(文久3)年生まれの村井弦斎は、9歳からロシア語を学び、20歳で渡米して約1年をすごしています。帰国後、『郵便報知新聞』(その後、『報知新聞』と改題)を発行する報知社に入社。社長で『経国美談』の著者として知られる矢野龍溪の勧めで、小説を執筆するようになりました。弦斎が連載した新聞小説は読者に大いに受け、彼は明治20年代から30年代の人気作家の一人に数えられるようになります。1901年からは「百道楽」というシリーズで、『釣道楽』『酒道楽』『女道楽』『食道楽』『食道楽続篇』という5篇の“道楽小説”を執筆しましたが、そのなかで最も話題を呼び、単行本が大ベストセラーになったのが『食道楽』でした。

よく『食道楽』を紹介する際に、“美食小説”とか“食通小説”という言葉が使われます。たしかに、この小説にはハイカラな西洋料理や贅沢な日本料理が出てくるので、おそらく読者もそう受け取っていたのでしょう。けれども、それは著者の村井弦斎の執筆意図とは、少し食い違っていました。実は、『食道楽』の前に書かれた『酒道楽』は、酒の飲みすぎの害を説いた“禁酒小説”で、『女道楽』は妾(めかけ)を持つ男の家庭が崩壊する様子を描いた“廃妾小説”でした。つまり、どちらも人々を啓蒙することを目的にした教訓小説だったのです。『酒道楽』と『女道楽』に続いて書かれた『食道楽』も、単なる美食の勧めなどではなく、教訓小説でした。

“主人公は腹が出た“元祖メタボ男”

『食道楽』の主人公は、大食漢で太った文学士の大原満です。「おおはらみつる」というネーミング自体、大きく突き出した腹を意味しているのは明らかで、“元祖メタボ男”と呼んでもいいかもしれません。その大原の恋の相手が、才色兼備で料理上手なお登和嬢。この小説のヒロインです。

外見は釣り合わない二人ですが、大原の美点は誠実で真面目でやさしいこと。お登和も大原の良さに気づいてひかれていきます。結婚話がまとまるかと思えたとき、大原のいとこのお代が親の決めた許嫁として現れて、二人の恋路を邪魔します。はたして大原の結婚はどうなるのか、というのが『食道楽』のストーリーですが、途中でお登和が料理のレシピを紹介したり、お登和の兄の中川が食についての蘊蓄を語って、話はどんどん脇道にそれていきます。それが面白いというので、読者に大いに受けました。

著者の村井弦斎は当初、誤った食生活で太ってしまった大原を、お登和がバランスのよいメニューを考案してメタボから脱却させる、という教訓小説を構想していたようです。これこそ、まさしく“食育小説”ですが、読者の興味は、まだ珍しかった西洋料理や食材に集中し、もっと料理をたくさん紹介してほしい、という要望が多く寄せられました。そのため、『食道楽』は、料理が主役ともいえる前代未聞の小説になったのです。

著者プロフィール

黒岩 比佐子(くろいわ ひさこ)

ノンフィクションライター。1958年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、PR会社勤務を経てフリーに。『「食道楽」の人 村井弦斎』(岩波書店)で2004年度サントリー学芸賞を受賞。主な著書に『音のない記憶--ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)、『伝書鳩--もうひとつのIT』(文春新書)、『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文春新書)がある。2007年12月に最新刊の『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)と『食育のススメ』(文春新書)を出版。2008年8月「歴史のかげにグルメあり」(文春新書)を出版。
古本好きで毎週のように神保町に通い、4年前から古本に関するブログ「 古書の森日記 」を公開中。

※ 著者は2010年11月17日、逝去されました。