「食育」の先駆者・村井弦斎

HOMEMIC FUN「食育」の先駆者・村井弦斎第10回:『食道楽』に登場する"歯"の話

第10回:『食道楽』に登場する歯の話

歯の掃除が大切な理由

村井弦斎の『食道楽』には、食物や料理以外にも家庭の日常生活におけるさまざまな問題が取り上げられていました。顔を洗うにはどんな石鹸がいいのか、髪の洗い粉は何がいいかなど、具体的な商品名まで挙げて書いている点で、『食道楽』は一種の“カタログ小説”のようにも読めます。実は、歯についてもいろいろな情報が盛り込まれていて、『食道楽』の夏の巻には「歯の掃除」と「歯磨粉」の2つの見出しがあります。

まず「歯の掃除」では、著者の弦斎の分身の中川が、彼と結婚することになる玉江に対して、歯をきちんと手入れすることがいかに大事か、ということを語っています。中川は「誰でも朝起きれば楊子(ようじ)で歯を磨いてそれから顔を洗う」と言っているので、『食道楽』が書かれた当時は「歯ブラシ」ではなく「楊子」と呼ぶのが普通だったこともわかります。もっとも、イラストに描かれた「楊子」を見ると、つまようじではなく、いまの歯ブラシとほぼ同じ形状のものでした。

ここで中川は、「世間の人は何のために歯を磨くのかをよく考えずに、ただ表面を擦る人が多いが、あれは衛生上よくない。歯は必ず表と裏と中のくぼみの三点を掃除しなければならない」と指摘しています。「そうしないと、歯の間やくぼんだ所に食物の残片がはさまり、腐敗して悪い細菌を生じ、その細菌が歯の骨質を腐蝕する。その腐蝕した所にまた食物がたまり、悪いガスを生じて歯の神経を刺激する。それで歯が痛くなるのです。」と中川。男女の結婚をめぐる物語でありながら、虫歯の話まで出てくる『食道楽』は、やはり型破りな小説だといわざるを得ません。

村井弦斎が編集顧問を務めていた『婦人世界』(写真は明治41年12月号)

この号に掲載されている歯磨粉の広告の一例

偽装品や有害な歯磨粉も

玉江が、「どうしたら虫歯にならないでしょう」と質問すると、早速、中川は得意の長広舌をふるい始めます。それによると、虫歯を防ぐには丁寧に歯の掃除をすることで、少なくとも、朝起きたときと夜寝るときの二度は歯を洗わなければならず、さらに丁寧にする人は毎食後に必ず楊子を使う、とのこと。つまり、一日に三回歯を磨くということですね。

そのあとの「歯磨粉」の話では、中川は次のように教えています。
「しかし注意しなければならんのは、もしその時悪い歯磨粉を使うと、かえって歯の琺瑯質(ほうろうしつ)を擦り耗(へら)して、それがために虫歯を惹起(ひきおこ)します。市中で売っている歯磨粉は大概ジャガ芋の粉を土台にしてあって、口へ入れて泡の立つのはジャガ芋のためです。それへ外(ほか)の品を色々に交ぜますが、随分歯のために有害な品が少くありません。」ジャガ芋の粉を使うという“偽装歯磨粉”には、思わず笑いそうになりますが、この連載の第6回でも述べたように、当時は偽装食品が横行していたので、歯磨粉もあやしげなものが平気で出回っていたのでしょう。

大隈家で使われていた特製歯磨粉

さらに中川は、大隈重信の家では特製の歯磨粉を使っているという話をします。実は、村井弦斎の妻の多嘉子の父親は、大隈重信の従兄弟に当たり、その関係から村井家と大隈家とは家族ぐるみで親しく交際していました。おそらく、これは弦斎の創作ではなく、事実と考えていいでしょう。そして、大隈家の親戚筋の一人の化学者が、有害な歯磨粉の多いことを嘆いて自ら歯磨粉の研究を始めた、と述べられています。
彼が開発した歯磨粉は、「歯を清潔にするばかりでなく細菌を殺してガスを消散させるので、歯磨粉というよりも、むしろ歯の薬と称したほうがいい」と中川は絶賛し、その歯磨粉を使い始めてから、大隈家の人々は虫歯が痛むことがなくなったと言っています。これが事実かどうかはわかりませんが、百年前の日本にも虫歯に悩む人がかなりいたことは、間違いないようです。

中川は歯について、こう語ってもいます。
「歯が悪ければ、食物を咀嚼することが出来ませんから、丸のまま胃腸へ落として遣って、それがために往々消化不良を起します。胃腸の悪い人が入歯をしてから病気の癒(なお)るという事も毎度あります。」食物のことだけでなく、その食物を咀嚼する歯の重要性についても、弦斎は読者に訴えようとしたのでした。

著者プロフィール

黒岩 比佐子(くろいわ ひさこ)

ノンフィクションライター。1958年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、PR会社勤務を経てフリーに。『「食道楽」の人 村井弦斎』(岩波書店)で2004年度サントリー学芸賞を受賞。主な著書に『音のない記憶--ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)、『伝書鳩--もうひとつのIT』(文春新書)、『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文春新書)がある。2007年12月に最新刊の『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)と『食育のススメ』(文春新書)を出版。2008年8月「歴史のかげにグルメあり」(文春新書)を出版。
古本好きで毎週のように神保町に通い、4年前から古本に関するブログ「 古書の森日記 」を公開中。

※ 著者は2010年11月17日、逝去されました。