「食育」の先駆者・村井弦斎

HOMEMIC FUN「食育」の先駆者・村井弦斎第11回:村井弦斎の家庭生活改良論

第11回:村井弦斎の家庭生活改良論

女性向け月刊誌の編集顧問に

日露戦争後、村井弦斎の人生に一つの転機が訪れます。それまで約18年勤めた『報知新聞』を辞めて、実業之日本社が1906(明治39)年に創刊した『婦人世界』という女性向け月刊誌の編集顧問に就任したのです。

弦斎はこの年から、ほとんど生涯にわたって『婦人世界』に記事を執筆するようになりました。その範囲は食物や料理などにとどまらず、衣食住のあらゆる面におよんでいます。その一方で、同誌に2篇の長篇小説を連載した以外に、小説はほとんど書いていません。

理由はいろいろ考えられますが、弦斎は『食道楽』を書いたことがきっかけで、食物と人間の身体との深い関係に興味を抱き、そこから衛生のことや日本の家屋のこと、日本人の生活習慣、病気の予防や治療法へと、関心領域がどんどん広がっていったのだろうと思います。そして、西洋の進んだ科学や医学について一般の人々にわかりやすく解説し、家庭生活の改良を推進するためには、小説のスタイルで書くよりも、生活評論としてストレートに述べたほうがいい、と考えたのではないでしょうか。

村井弦斎著『婦人の日常生活法』と実業之日本社刊『婦人世界』

家庭の日常生活のあらゆる問題を解決

村井弦斎が『婦人世界』に連載した記事の多くは、あとで単行本として実業之日本社から出版されていますが、その1冊目が1907(明治40)年に出た『婦人の日常生活法』です。タイトル通り、女性が朝起きてから夜寝るまでの1日にすべきことを細かく挙げ、それぞれについてより良い方法を記述したものです。約百年後の私たちが読むと、なぜこんなに基本的なことを書いたのだろうと思いますが、『婦人世界』の投稿欄には、この本がとても役に立った、という読者の感謝の声が多数掲載されています。

『婦人の日常生活法』の目次には、「夜具は如何に畳むべきか」「顔は如何に洗うべきか」「挨拶は如何に為すべきか」「朝飯は如何に支度すべきか」「裁縫は如何にすべきか」「洗濯は如何にすべきか」「貨幣は如何に取り扱うべきか」「入浴は何の効能があるか」「手紙は如何に書くべきか」「病気の時は如何にすべきか」等々、家庭の日常生活のあらゆる場面における女性の心得が記されています。もし何か困ったことが起こっても、この本が1冊あればすぐに解決できる、というわけです。

「歯は昔から生命の根元」だった

ところで、1904年に刊行された大日本女学会編『婦人宝典巻二』の「家事衛生食物」の章を見ると、「お歯黒」について書かれています。「鐵漿(おはぐろ)は女子が歯をして涅(くろ)く艶(つやや)かならしむる為のものなれば、之を染むるに先(さきだ)ち歯を清潔にするを以て害なしといふものあれども、一旦染めし歯を剥ぎて、更に染めんとするには強き酸類を用ゐるが如きことあるを以て、口中を刺戟(しげき)し有害なり。近来之を用ゐるもの大に減少するは、喜ぶべきことなり」これを読むと、有害とされながらも、既婚女性のお歯黒の習慣が、明治後期にはまだ一部で残っていたことがわかります。

一方、弦斎は『婦人の日常生活法』のなかで、歯を磨くことは女性の生活で非常に重要な問題であるのに、世間の女性はそれほど大切なことだと思っていない、と注意を促して、さらに次のように指摘しました。「歯は昔から生命の根元といった位で、歯の字をよはひと訓(よ)むのもそれが為めであります。歯が悪ければ食物が消化しないで、色々な病気を起すことは誰でも知って居ます。其(その)上婦人の歯は容色の美を発揮する一要点で、歯列(はなみ)の悪いのは美貌の欠点としてある位ですから、其点からも婦人の歯を大切にしなければなりません」

たしかに「歯」という漢字は「よわい」と読み、「とし(齢)」を意味します。また、歯並びの悪さが美貌を損ねるということは、現在では常識になり、早くから歯の矯正をする人が増えました。しかし、まだお歯黒の習慣が残っていた当時は、そうした意識があまりなかったのでしょう。旧来の習慣を改め、西洋の新知識を取り入れた生活を営みたい、という女性たちのニーズに応えて、弦斎はこの本を書いたのでした。

著者プロフィール

黒岩 比佐子(くろいわ ひさこ)

ノンフィクションライター。1958年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、PR会社勤務を経てフリーに。『「食道楽」の人 村井弦斎』(岩波書店)で2004年度サントリー学芸賞を受賞。主な著書に『音のない記憶--ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)、『伝書鳩--もうひとつのIT』(文春新書)、『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文春新書)がある。2007年12月に最新刊の『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)と『食育のススメ』(文春新書)を出版。2008年8月「歴史のかげにグルメあり」(文春新書)を出版。
古本好きで毎週のように神保町に通い、4年前から古本に関するブログ「 古書の森日記 」を公開中。

※ 著者は2010年11月17日、逝去されました。