「食育」の先駆者・村井弦斎

HOMEMIC FUN「食育」の先駆者・村井弦斎第12回:明治時代の歯をめぐる珍談・奇談

第12回:明治時代の歯をめぐる珍談・奇談

健康な歯を金歯にする流行

村井弦斎の友人に、歯科医院長の志村誠麿という人がいます。志村はアメリカに渡って苦学し、歯科教授の助手としてアメリカで5年間経験を積んだのちに帰国して、歯科医として活躍しました。当時、日本に滞在している外国人にも信頼されていたということです。

村井弦斎が編集顧問を務める『婦人世界』には、読者の相談コーナーがあり、そのなかの「歯科問答」コーナーはこの志村が回答者でした。また、日本初のグルメ雑誌と呼ばれる『月刊食道楽』にも、志村のインタビューが載っています。

これらの記事には、いま読むと信じられないようなこともたくさん書かれています。たとえば、『月刊食道楽』1906(明治39)年8月号に掲載された「歯の注意」という志村のインタビュー記事には、義歯のことが出てきます。志村によると、最近、金歯が美しいと思いこんでいる女性が、わざわざ健康で丈夫な歯を引き抜いて黄金の義歯をすることがある、とのこと。志村はそれを、「宜敷(よろしく)ない流行」だと述べています。美しく見せるために、金歯が流行していたとは……。

歯科医の志村誠麿(『実業之日本』明治40年5月10日号)

「日乃出はみがき」の広告(『女学世界』明治40年6月15日号)はみがき粉をブラシにつける様子がイラストからわかる。

恐ろしい「歯を白くする薬」

また、志村によれば、浅草公園などでは、金の入れ歯と称して、金色の金属で細工した歯が一個6~7銭でよく売られていたそうです。一見、金歯に見えるので、オシャレのつもりで買う人がいたのですが、それをつけると歯の琺瑯質(ほうろうしつ)を害することになる、と志村は指摘しています。なぜなら、入れ歯と天然の歯との間には必ず隙間ができ、そこに食物のカスがたまって、歯を腐蝕させてしまうからです。志村は「玩具同然の義歯などは、冗談にもつけるべきものではありません」と憤っています。

もう一つは、大道で売られている恐ろしい薬液の話。志村の知人の妹が、「歯を白くする薬」と称する薬を買い、それを使って歯を磨いたところ、すぐに真っ白になったものの、数日経つと歯が次第に黒くなってきました。さらに、痛みを感じ始めたため、その時点で彼女は初めて不審に思い、その薬液を持って、志村の歯科医院へ診察を受けに来ました。

志村が調べてみると、その薬液の正体は、希塩酸に水を加えたものでした。希塩酸は歯の琺瑯質を溶解するので、最初は歯を白くしますが、続けて用いていると琺瑯質を腐蝕させ、その下の骨質が露出し、ついにはまったく役に立たない歯になってしまいます。

その女性の場合は、途中で気づいたのでよかったものの、「何も知らずに、こんな危険な売薬を使っている例がずいぶんあるので注意が必要だ」と志村は警鐘を鳴らしています。

尺八を吹くと出っ歯になる?

最初に述べた「歯科問答」にも、面白いことが書かれていました。ちょうど百年前の『婦人世界』1908(明治41)年12月号では、「育児問答」が1ページなのに対して「歯科問答」は3ページもあり、当時の人々の歯に関する知識が、いかに乏しかったかが想像できます。なんと、こんな問答も……。

(問)笛や尺八を吹くと、出歯(でっぱ)になると聞きましたが、本当ですか。

(答)尺八を吹いた為に出歯になった実例は沢山あります。現に私の従兄(いとこ)は、十七八歳の時から、尺八を吹いたので、この頃では可なり出歯になりました。年齢によって歯に影響することも多少相違があります。十七歳前は骨質が軟かで変形し易いが、十八歳後はさほど影響もありますまいと思ひます。しかし、長い間、尺八を吹きましたら、知らず知らずの間に少しずつ変形して反歯(そっぱ)にならぬとも限りません。

ほかにもいろいろな質問がありましたが、明治期でも、虫歯や歯槽膿漏に悩んでいる人は意外に多かったようです。また、地方の読者からは、「田舎で歯科の医師がありませんから、何(ど)うぞ療法をお教へ下さい」という切実な声が届いていました。

明治というと、はるか昔のように感じている人が多いかもしれません。けれども、食物や歯の衛生に関する知識が社会に広く普及したのは、わずかこの百年余りにすぎないのです。現代の日本を知るためには、原点といえる明治という時代を、改めて見直す必要があるのではないでしょうか。

これまで村井弦斎の『食道楽』を中心に、明治のさまざまな食に関する話題を取り上げてきましたが、この連載は今回で終わります。1年間お付き合いいただきまして、どうもありがとうございました。

著者プロフィール

黒岩 比佐子(くろいわ ひさこ)

ノンフィクションライター。1958年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、PR会社勤務を経てフリーに。『「食道楽」の人 村井弦斎』(岩波書店)で2004年度サントリー学芸賞を受賞。主な著書に『音のない記憶--ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)、『伝書鳩--もうひとつのIT』(文春新書)、『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文春新書)がある。2007年12月に最新刊の『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)と『食育のススメ』(文春新書)を出版。2008年8月「歴史のかげにグルメあり」(文春新書)を出版。
古本好きで毎週のように神保町に通い、4年前から古本に関するブログ「 古書の森日記 」を公開中。

※ 著者は2010年11月17日、逝去されました。