「食育」の先駆者・村井弦斎

HOMEMIC FUN「食育」の先駆者・村井弦斎第1回:文明開化と西洋料理事始

第1回:文明開化と西洋料理事始

「食育」という言葉の由来

「食育基本法」が成立したのは2005年の6月。その翌月から施行され、昨今では新聞に「食育」の文字が見えない日が珍しいほどです。ところで、この「食育」という言葉はそもそも何を意味しているのでしょう。ためしに、手近にある国語辞典でこの言葉を引いてみてください。この法律ができる以前に刊行された国語辞典なら、あの『広辞苑』にも載っていないはずです。法律の名称なのに……と驚いた方がいらっしゃるかもしれません。

国語辞典にない以上、「食育」は日本語として普通に使われてきた言葉とはいえず、一種の造語です。しかし、「食育基本法」の前文を読むと、《今、改めて、食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置づける》と書かれています。なぜ21世紀初頭のいま、国語辞典にも載っていない言葉を冠した法律がつくられたのでしょうか。

実は、約100年前に村井弦斎という作家が書いた『食道楽』という小説のなかに、すでに食育という言葉が出てきます。弦斎は「小児には徳育よりも知育よりも体育よりも食育が先き」という歌もつくっています。「食育基本法」の名称が、明治期に使われたこの食育の語に由来していることは、ほぼ間違いありません。著者は3年前にこの村井弦斎の評伝を執筆し、彼の食物に関する造詣の深さや先見性に驚かされました。そこで、この機会に「食育」を一つの切り口にして、日本の近代以後の食の変遷や、"食育小説"とも言うべき『食道楽』について述べてみたいと思います。

開国は新しい食文化の夜明け

さて、時計の針を幕末まで巻き戻すと、「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」の落首で有名な黒船来航は、1853(嘉永6)年のことでした。「上喜撰」(じょうきせん)とは銘茶の名で、「蒸気船」に掛けた言葉です。ペリー提督が率いる米国艦隊は、翌年ふたたび日本を訪れ、横浜に上陸して幕府に開国を迫りました。その結果、日本はついに200年以上にわたった鎖国に終止符を打つことになったのです。

このとき、幕府はペリーの一行を、本膳料理という伝統的な日本料理で饗応(きょうおう)しました。しかし、残念ながら、これはペリーたちの口には合わなかったようです。ステーキなどの肉料理を食べる国から来たペリーが、刺身など火を通さない生ものを見てどう思ったかは、なんとなく想像できます。また、脂肪分の多い食事に慣れているアメリカ人は、味付けが淡白な和食では、満腹感を得られなかったのでしょう。食材は野菜と魚介類がほとんどで、牛肉も豚肉も使われていませんでした。昆布のだしやわさびなど、未知の味にも戸惑ったに違いありません。ちなみに、このときペリーの艦隊は長旅の食糧にするため、牛や羊やニワトリを船内で飼っていました。

仮名垣魯文作『安愚楽鍋』に描かれた牛鍋屋の挿絵

西洋料理店が続々開店

開国後、日本には多くの外国人が住むようになり、西洋の食文化が流れ込んできました。日本初の西洋料理店は、1857年に早くも長崎で開業しているそうです。そして、横浜が開港するのが1859年。それまで寂しい小さな村にすぎなかった横浜は、国際都市へと大きく飛躍していきます。横浜につくられた外人居留地は、西洋料理のコックの"養成所"になりました。ここには西洋料理店が相次いで開業し、1861年には外国人による初めてのパン屋も出店しています。こうした店に雇われて働く日本人が、西洋料理を学んでいったのです。この年、日本初の牛鍋屋「伊勢熊」が横浜に開店していますが、開店早々から予想以上の大繁盛だったとのこと。新しいものが好きで好奇心旺盛な日本人の面目躍如、といったところでしょうか。食の分野の文明開化は、驚くほどのスピードで進んでいったのでした。

著者プロフィール

黒岩 比佐子(くろいわ ひさこ)

ノンフィクションライター。1958年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、PR会社勤務を経てフリーに。『「食道楽」の人 村井弦斎』(岩波書店)で2004年度サントリー学芸賞を受賞。主な著書に『音のない記憶--ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)、『伝書鳩--もうひとつのIT』(文春新書)、『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文春新書)がある。2007年12月に最新刊の『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)と『食育のススメ』(文春新書)を出版。2008年8月「歴史のかげにグルメあり」(文春新書)を出版。
古本好きで毎週のように神保町に通い、4年前から古本に関するブログ「 古書の森日記 」を公開中。

※ 著者は2010年11月17日、逝去されました。