「食育」の先駆者・村井弦斎

HOMEMIC FUN「食育」の先駆者・村井弦斎第4回:石塚左玄と村井弦斎

第4回:石塚左玄と村井弦斎

日本のマクロビオティックの元祖、石塚左玄

前回、教育の三つの分野を示す「知育・徳育・体育」という言葉が、ハーバード・スペンサーの教育論に由来することを述べました。では、「食育」という言葉を最初に使ったのは誰なのでしょうか。村井弦斎……と言いたいところですが、実は弦斎より少し早く食物に関する本を書いて、そのなかで「食育」という言葉を造語して使った人物がいました。石塚左玄(さげん)という陸軍薬剤監だった人です。

石塚左玄は「食養医学」を提唱し、現在では「マクロビオティックの元になる食養論を唱えた先駆者」として名前を知られています。最近、書店の料理本コーナーに行くと、健康食関連の本として「マクロビオティック」について書かれた本がたくさん並んでいます。玄米食や菜食を勧めるマクロビオティックは、ちょっとしたブームだといえるでしょう。もともと「マクロビオティック」とは、不老長寿や長生き法を意味するギリシャ語に由来する言葉です。石塚左玄が明治期に提唱した食養論は「正食」(せいしょく)と称されて、近代日本の健康運動のなかで一つの大きなムーブメントになっていきました。それが、のちにマクロビオティックという言葉に転じたのです。

石塚左玄の著書。左は『化学的食養長寿論』(1896年)、右は一般向けにリライトした『通俗食物養生法』(1898年)に掲載されている著者の肖像

著書で「食育」という言葉を初めて使う

その石塚左玄が1896(明治29)年に出版したのが『化学的食養長寿論』です。書名も難しそうですが、文章はルビなしの漢文訓読体で、現代人にはなかなか歯が立ちません。このなかに「嗚呼(ああ)何ぞ学童を有する都会魚塩地の居住民は、殊(こと)に家訓を厳にして体育智育才育は即ち食育なりと観念せざるや」という文章が出てきます。わかりにくいと思いますが、要するに「子供を持つ親たちは、体育・知育・才育とは食育だと考えなさい、それくらい「食」は大事なことですよ」と言っているわけです。石塚左玄はここで「徳育」ではなく「才育」という言葉を使っていますが、「才育」はこれ以外に用例を見つけることができませんでした。

なぜ、石塚左玄はスペンサー流の「知育・徳育・体育」ではなく、「体育・知育・才育」と表現したのでしょうか。石塚左玄はこの本で、西洋崇拝をやめて、東洋の思想や知恵を見直すことを主張しています。「才」と「智」を合わせた「才智」は中国由来の言葉で、「才気と智恵」という心の働きを意味しています。つまり、それに「体」を加えた「体育・知育・才育」の三つで、人間の心と身体の働きのすべてを表していることになります。石塚左玄は、単純な西洋崇拝の誤りをただすとともに、「食育」という言葉を造語して、食物の正しい知識を知ることが大事だ、と強調したのだと思います。

明治のベストセラー作家、村井弦斎の「食育論」

ただし、石塚左玄はそれ以後、「食育」という言葉をとくに使っていません。その代わり、「食養」が彼のキーワードになっていきます。そして、石塚左玄の『化学的食養長寿論』が出た7年後の1903(明治36)年に、『食道楽』という小説の文中で「食育論」を述べたのが、当時の人気作家だった村井弦斎でした。専門書の『化学的食養長寿論』の部数は1000~2000部程度だったと推定されますが、春夏秋冬の4巻で出版された『食道楽』の単行本は、明治期では驚異的ともいえる十数万部の大ベストセラーになりました。

学者や政治家たちが、「徳育論」や「体育論」を堅苦しい論文でさかんに発表していたときに、村井弦斎は『食道楽』で、それよりもっと大事なのは食育だと言って、「食育論」を堂々と提唱したのですから、当時の読者は面白がって受けとめたことでしょう。「食育」という言葉が「知育・徳育・体育」の語呂合わせであることは、言うまでもありません。

しかし、『食道楽』は表面的には滑稽小説ですが、村井弦斎自身は、読者を啓蒙する目的で執筆していました。そのため、「食育論」という大げさな言葉を持ち出してきて、読者を笑わせながら、彼はあくまでも真面目に、「食」の大切さを伝えようとしたのです。次回以降、この『食道楽』というユニークな小説の内容を紹介していきたいと思います。

著者プロフィール

黒岩 比佐子(くろいわ ひさこ)

ノンフィクションライター。1958年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、PR会社勤務を経てフリーに。『「食道楽」の人 村井弦斎』(岩波書店)で2004年度サントリー学芸賞を受賞。主な著書に『音のない記憶--ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)、『伝書鳩--もうひとつのIT』(文春新書)、『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文春新書)がある。2007年12月に最新刊の『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)と『食育のススメ』(文春新書)を出版。2008年8月「歴史のかげにグルメあり」(文春新書)を出版。
古本好きで毎週のように神保町に通い、4年前から古本に関するブログ「 古書の森日記 」を公開中。

※ 著者は2010年11月17日、逝去されました。