「食育」の先駆者・村井弦斎

HOMEMIC FUN「食育」の先駆者・村井弦斎第7回:美食から断食研究へ

第7回:美食から断食研究へ

日露戦争中にも読まれた『食道楽』

村井弦斎が1903(明治36)年に『報知新聞』に連載して人気を博した『食道楽』は、春・夏・秋・冬の巻の4冊の単行本になると、飛ぶように売れてベストセラーになります。それに伴って食道楽ブームが起こり、街には『食道楽』のヒロインの名前をつけた「おとわ亭」という料理屋が出現し、日本初のグルメ雑誌ともいうべき『月刊食道楽』も創刊されました。

『食道楽』の単行本の最後の冬の巻が出版されたのは1904年3月で、日露戦争が開戦した翌月のことです。この小説が広く読まれたのが、ロシアと戦っている最中だったというのは、意外に思えるかもしれません。弦斎はこの本の広告に、「此書の料理法は戦地にて大評判」と書いています。

実際に、出征した兵士が『食道楽』を読んでいると報じた新聞記事もありますし、水野広徳が水雷艇艦長として戦った日本海海戦の戦記『此一戦(このいっせん)』の文中にも『食道楽』が登場しています。水雷艇にはコックがいないので、食事は水兵が『食道楽』を参考に作っているというのですが、「ビフテキが焦げて炭になり、ライスカレーが固まって餅になるなどの失敗も演じられる」とユーモラスに語られています。

“美食の殿堂”となった村井邸

こうして、『食道楽』によって村井弦斎は美食家として知られるようになりました。1904年冬、『食道楽』で得た利益で、神奈川県の平塚市に1万6400坪という広大な土地を購入した弦斎は、自分が理想とする生活を実践します。畑では大根やナスなどはもちろん、パセリ、セロリ、レタス、アーティーチョークなど珍しい西洋野菜やイチゴも栽培し、温室も設け、果樹園ではモモ、柿、ビワ、梅、ザクロなどを育て、ニワトリ、ヤギ、ウサギも飼育していました。また、魚は近くの川や海で釣ってきたので、食物に関しては、まさに自給自足に近い環境だったといえるでしょう。

平塚の村井邸には、各地の食品会社から次々に新製品が送られてくるようになります。また、弦斎も各地の食の名産品を取り寄せて、味や品質を調べていたため、いつのまにか、食関係のさまざまな人たちが平塚に集まるようになりました。味の素創業者の鈴木三郎助、森永製菓創業者の森永太一郎、カルピス創業者の三島海雲、料亭「八百善」の八代目主人の栗山善四郎、そのほかに腕のいい料理人なども平塚へ足を運んでいます。

こうして、平塚の邸宅はあたかも“美食の殿堂”という様相を呈するようになりました。味の素の社史によれば、鈴木三郎助が化学調味料「味の素」の企業化を決意したとき、弦斎がこの新調味料を高く評価したことが大きな自信になった、ということです。事実、弦斎は「味の素」の初期の広告に登場して、推薦の言葉を寄せています。

味の素の広告にも登場した村井弦斎(『婦人世界』1910年5月15日、春期増刊号)

“食物研究の一環として断食を実践

ところが、美食家として知られた弦斎はその後、断食研究に取り組んで、人々をあっと驚かせました。それ以前から、彼は美食よりも身体と食物の関係に興味をもっていました。そして、病気治療に効果がある食物について調べ、食餌(しょくじ)療法に着目し、その研究に没頭するようになったのです。その一つが、何日間か継続して食事をとらない断食療法で、1916(大正5)年には、自ら35日間の長期断食も実践しています。

弦斎は断食のみならず、肉を食べず野菜だけを食べる菜食、果物だけを食べる果物食、生ものばかり食べる生食(せいしょく)、木の実や根や蕎麦粉などを食べる木食(もくじき)など、さまざまなことを試みています。かなり無茶なことをしたため、胃腸を害することすらありました。木食の実験をしていたときは、宴会に招かれてもご馳走にはいっさい口をつけず、お湯をもらって持参した蕎麦粉を溶いて食べたといいますから、徹底しています。同席した人たちは、さぞ呆れて見ていたに違いありません。

さすがに、こうしたことが続いたため、弦斎は次第に周囲の人々から、奇人・変人扱いされるようになるのです。ベストセラー作家でありながら、1927(昭和2)年に亡くなった時点で、村井弦斎がすでに文壇から忘れられた存在になっていたのは、そのためだったといえるでしょう。

著者プロフィール

黒岩 比佐子(くろいわ ひさこ)

ノンフィクションライター。1958年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、PR会社勤務を経てフリーに。『「食道楽」の人 村井弦斎』(岩波書店)で2004年度サントリー学芸賞を受賞。主な著書に『音のない記憶--ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)、『伝書鳩--もうひとつのIT』(文春新書)、『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文春新書)がある。2007年12月に最新刊の『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)と『食育のススメ』(文春新書)を出版。2008年8月「歴史のかげにグルメあり」(文春新書)を出版。
古本好きで毎週のように神保町に通い、4年前から古本に関するブログ「 古書の森日記 」を公開中。

※ 著者は2010年11月17日、逝去されました。